「中所得国の罠」の回避と、脱製造業を目指すタイ

「中所得国の罠」の回避と、脱製造業を目指すタイ

末廣昭(東京大学社会科学研究所)

最近、日本の新聞でしばしば名前を見るようになったCP(チャルンポーカパン、正大)グループ。タイを代表する財閥型のファミリービジネスである。冷凍ブロイラー、冷凍エビ、天然ゴム、包装米などの製造と輸出からなるアグロインダストリー、「7-イレブン」に代表される近代小売業、携帯電話を主力とする情報通信業の3つが、彼らの主たる事業基盤である。そのCPグループが近年力を入れているのが、都市富裕層をターゲットとする新しいタイプの不動産開発(マンション、ホテル、複合施設)である。

CPグループの不動産部門を担うCPランド。同社が2014年10月に、バンコクでも最高級に近いマンションの販売計画(2016年から分譲開始)を発表した。52階建ての超高層マンションはチャオプラヤー川に面し、146戸からなる。分譲価格は平米当たり35万バーツ以上で、一戸当たりの面積は最低132平米から最高690平米まで、いろいろとある。当時のレートである1バーツ=3.6円で計算すると、中間値の300平米のマンションはじつに3億7800万円、最低の132平米のマンションでも1億6600万円の物件となる。東京の一等地と比べても何らそん色はない。実際、チュラーロンコン大学の近くに建てられた学生(の両親)向けのマンションの場合でも、30平米の部屋の分譲価格は1600万円を超えた。地価の上昇は東アジアの大都市に共通する現象である。

タイは1988年から経済ブームを迎え、その後92年頃にバブル経済に突入し、96年のバブル崩壊をへて、97年には通貨危機に直面した。この間、バンコクの地価はうなぎ登りに上昇した。1985年を100とすると95年はじつに3130、つまり31倍の上昇をみた。アジア通貨危機後、地価はいったん下がったものの、2014年現在、バンコクの地価の指数は4450である。通貨危機後の1999年と比べても1.7倍に上昇している。この地価の上昇はタイの企業経営にいくつかの新しい動きをもたらした。

まず、経済ブーム期以前には重視されなかった土地が資産価値をもち、銀行借入の際の重要な担保となり、あるいは土地を保有する上場企業の株価を引き上げる要因となった。その結果、通貨危機後に没落した一族から土地をいっきょに買い集めたCPグループやTCCグループ(象印のチャーン・ビールやオイシの緑茶で知られる)は、土地を担保に巨額の資金を調達し、海外で大規模な企業買収を開始した。CPグループが中国などアジアで実施している企業への出資や買収の金額は、この5年間で優に2兆円を超える。次に、地価の上昇は、転売目的の土地売買(不動産業)だけではなく、意匠を凝らした土地付き一戸建ての販売や、さらには家の内装や居住環境に重きを置く住宅産業(ハウジング)の成長を促した。

いま、タイの経済で最も元気のよいセクターは、こうした住宅産業のほか、大規模なショッピングセンター(SC)、コンビニ、レストラン、外食産業(日本食を含む)、ホテル、映画・芸能産業、医療産業(大規模な病院経営)、健康ビジネス(スパ)、観光産業などである。一言でいえば都市中間層(富裕層)の登場とともに成長を遂げる「サービス産業」なのである。

CPグループのCPオール社が経営する「7-イレブン」の店舗数は、2015年1月現在、8127店。日本の1万7206店に次いで世界第2位の店舗数を誇る。すでに本家アメリカの7800店を抜いているのである。また、2014年のタイの観光客数は2480万人、そのうち中国からの観光客は400万人を超えた。同じ2014年に、日本の観光客数は「史上最高」を記録したが、それでも1340万人(中国からは240万人)と、タイの数字には及ばない。タイは東アジアの都市富裕層を吸引する観光大国でもあるのだ。

2010年代に入って、アジア開発銀行や世界銀行は相次いで、新興アジア諸国が「中所得国の罠」に陥りつつあるという報告書を刊行し、従来型の要素投入型成長路線に警鐘を鳴らした(末廣昭『新興アジア経済論』岩波書店、2014年)。タイもそうした国の一つである。その場合、注目されるのはもっぱら製造業であり、イノベーションの推進や新製品の開発能力を重視する議論が主流である。しかし、タイからの輸出の3割を占める電子・IT製品と自動車・同部品を製造するのは、大半が外国企業である。地場のタイ企業がこの分野に参入することは難しい。

一方、地場の企業、とくにCPグループをはじめタイのファミリービジネスが事業を拡大している分野は、国内資源を活用したアグロインダストリーと、先に紹介したサービス産業の2つである。韓国や台湾が追求した工業化のパターンとも、中国が現在進めている工業化のパターンとも異なる、もうひとつの道であった。

タイの経済開発計画を策定する国家経済社会開発庁(NESDB)のアーコム長官は、こうした道、つまり非製造業分野においてタイの競争優位を追求する考え方を、「創造的経済(creative economy, setthakit sangsan)への道」と呼んだ。また、タイの投資受け入れを統括する投資委員会(BOI)も、新しい投資奨励の分野として、国内資源の活用(食品加工やハーブ産業)と、ホスピタリティとウェルネスのアッピール(観光産業、医療・健康サービス産業など)を重視する方針を発表した。両者に共通するのは、タイらしさ(Thainess)に競争優位を見出そうとする姿勢である。

もちろん、タイらしさを追求する政策が、タイに持続的な成長をもたらすかどうかはまだ分からない。また、労働力不足が続けば賃金が上昇し、賃金が上昇しても製造現場でイノベーションが停滞すれば、タイが「中所得国の罠」に陥る可能性は高い。しかし、「中所得国の罠」を論じる場合に、私たちはあまりに製造業、とりわけ自動車産業やIT産業に目を向けすぎている。非製造業の分野、サービス産業にもっと注意を払ってもよいのではないか。その点を示しているのがタイの事例だと私は思う。(2015年1月30日)