再考、環境社会配慮の国際協調

再考、環境社会配慮の国際協調

堀田昌英

東京大学大学院新領域創成科学研究科 国際協力学専攻 教授

ベンガル語には「自分で自分のすねを叩く」という表現があるそうだ.日本語で言えば「自分で自分の首を絞める」ということになるのだろう.この表現を初めて聞いたのは筆者がバングラデシュのある大規模インフラ建設事業で生じる非自発的住民移転について,現地の被影響住民に聞き取り調査をしていたときのことである.

アジア地域で開発事業の支援を行う主要な国際開発機関,二国間ドナー(以下,国際開発機関等と呼ぶ)が融資,資金協力,技術協力を行う際には,対象事業において適切な環境社会配慮が確保されるための各機関のルールを遵守することになっている.資金協力を受ける国や事業実施主体等はそこで謳われている原則に概ね同意することが協力実施の実質的な条件となる.世界銀行,アジア開発銀行,国際協力機構(JICA),国際協力銀行(JBIC)等はそれぞれ自らのガイドラインや手続き等従うべきルールを定めており,相手国の事業実施主体にはそのルールに沿った環境社会配慮の実施を求めると共に,自身も審査時の確認や実施時のモニタリングを通して事業の実態について正確に把握する努力を行う義務がある.また,国際開発機関等の間でも,普及している国際規範やお互いのルールを認識し,協調融資などの際にルールの違いが事業実施上の支障にならないよう調和化が図られる.各機関や国際社会の環境社会配慮をめぐる様々な模索を経て,環境影響評価,情報公開,住民参加といった主要な原則についてはほぼ合意されていると言って良い.

非自発的住民移転はその中でも比較的各国・地域で同一の原則に従った運用が難しい分野である.これは土地・財産の所有権,使用権等に関する法制度や慣行が各国で様々に異なることにも一因があろう.それでも,この問題で被影響住民への補償金額を巡るコンフリクトがしばしば深刻化することもあり,いくつかの点においては各機関で共通して採用されている原則がある.その一つが「土地収用にあたってはその補償は再取得価格(replacement cost)を基準とするべきである」という考え方である[i].これは一見自明なようにも見えるが,実際は想像以上に複雑な現状を反映している.

例えば,類似した概念として,「再取得価格」を「補償時点での市場価格」と置き換えてみるとどうだろう.事業用地取得のために土地収用の対象となった移転対象地の補償金額を算定する際,同一受給圏における最近の市場取引の登記価格を参照する手法もあり得るはずである.しかしこのような方法で補償金額を算定してしまうと,実際に移転時点において等価な土地を購入するのに必要な価格(再取得価格)に比べて,極端に低い,場合によっては数分の一程度の水準になってしまうことがある[ii]

これには場所によって様々な理由が知られているが,例えばインド,バングラデシュ,パキスタンなどの旧英領南アジア地域の国々では,土地取引の際に取引価格の一定割合として政府に納める登録免許税(stamp duty)を節減するため,登記価格を実際の取引価格より相当程度低く申請するという慣行が存在する.したがって,登記価格を正しい取引価格と仮定してしまうと,結果として算定される補償金額が再取得価格より遙かに低くなってしまうのである.

住民の立場から見れば法定補償水準が低すぎることには大きな不満があるが,それが元々は何に起因しているかを皆が自覚している状況も存在する.冒頭の「自分で自分のすねを叩いている」と語った住民は,上記の慣行を冗談めかして説明したのである.(これは秘密の告白でなく,周知の事実なので周囲にいた全員の住民が笑った.)低すぎる法定補償水準は,しかし多くの住民移転で深刻な対立を引き起こしてきた.2008年に工場と経済特区の設立を巡る農地収用を巡り,インドの西ベンガル州シングールにおいて大規模な紛争が生じたことは記憶に新しい[iii].このような問題を防ぐための一つの手法として,「再取得価格」という基準が導入されているのである.

再取得価格に基づく補償基準をはじめとして,被影響住民に対する不利益を回避するための種々の知見や手法が主要な国際開発機関には蓄積している.現在に至っても各事業における実際の運用には未だ様々な課題が残されているものの,開発援助事業によって引き起こされた住民移転を巡る問題が国際社会で取り上げられ始めた1980年代と比較すれば着実な前進が見られる.

他方,住民移転を含む環境社会配慮の取り組みは,事業推進の立場から見れば時に大きな制約となり,その丁寧な取り組みは追加的な時間や費用を必要とするためにしばしば疎んじられるのも事実である.しかし人権をめぐる普遍的原則が国際社会に定着し,また事業の遂行にとっても「急がば回れ」とも言うべきコンフリクト・マネジメントの概念が普及しつつある中で,これらの取り組みの時計の針を戻すことはできない.現在では国際開発機関等による融資,資金協力,技術協力にとどまらず,近年では赤道原則(Equator Principles)のように,民間金融機関からの海外プロジェクト・ファイナンスおよび一部のコーポレート・ファイナンスに対しても環境社会リスクの管理に関する義務(due diligence)を定める独自の枠組みもあり,これらは国際的に公的部門,民間部門を問わず確立された原則となっている.

アジア地域においてはアジアインフラ投資銀行(AIIB)の設立に伴い,その環境社会配慮を含む組織運営体制についても様々な議論が沸き起こっている.確かに上記の理由で,インフラ整備の圧倒的な需要増加に直面する新興国が,従来のシステムに迅速性の観点から相応の苛立ちを感じていても不思議ではない.融資の審査に伴う複雑な手続きを,その質を下げることなく効率化する取り組みは以前にも増して重要となろう.その一方で,AIIBをはじめとする新たな国際金融機関が,既に確立された国際規範からの逸脱をもって相手国等の迅速な事業実施のニーズに応えることは恐らくいずれのステークホルダーにとっても望ましい結果をもたらさないであろうし,現在設計されているであろうAIIBの組織運営体制がそのような方向に長期的に向かうとも思えない.何が「自らのすねを叩く」かは,アジアの重要なパートナーには既に十分自覚されているはずである.

 


[i] 例えば,国際協力機構(2010)「国際協力機構環境社会配慮ガイドライン」,p.24.

[ii] 堀田昌英(2011)「環境社会配慮活動の展開」.藤野陽三,赤塚雄三,金子彰,堀田昌英,山村直史『海外インフラ整備プロジェクトの形成』(鹿島出版会)第4章,p.129.

[iii] 朝日新聞(2008)「工場建設に農民反旗 インド土地収用,薄い補償」朝日新聞2008年9月24日朝刊p.9.