古くて新しいスリランカの灌漑研究

古くて新しいスリランカの灌漑研究

會田剛史 (日本学術振興会特別研究員・政策研究大学院大学)

 

スリランカにはかつて、高度な水利文明があった。紀元前4世紀頃にはシンハラ系の王国が存在し、灌漑農業が行われたとされる。これに伴い、7世紀前半をピークに13世紀頃まで、大規模な貯水施設や灌漑水路が建設されてきた。また、当時仏教の先進国でもあったスリランカには、法顕を始めとする中国仏教僧が訪れ、仏教のみならず最先端の水利技術も学んで中国に持ち帰った。これを学んで日本に帰ってきたのが満濃池改修に携わった空海だというから、歴史のロマンを感じる[1]。

この水利の国・スリランカにおける灌漑管理に関する研究が、筆者の開発経済学研究の第一歩だった。とは言っても、対象は古代の灌漑設備ではなく、「現代」灌漑プロジェクトに関する研究である。調査対象地はスリランカ南部のウダ・ワラウェ地域。1960年代にスリランカ政府は南部低地地域の開発を目的として、ワラウェ川流域に貯水池および左右両岸の幹線水路を建設した。右岸地域はアジア開発銀行の融資によって開発されたが、取り残された左岸地域は旧JBICの円借款により1995年にようやく開発が始まった。この円借款プロジェクトの効果を測定するためにJBIC開発金融研究所(現JICA研究所)が立ち上げた研究グループに関わる機会を得たのが、修士課程の時であった。以降、同データを用いて様々な研究を実施してきたが、本コラムでは主に灌漑管理の問題について述べたい。

昔も今も灌漑管理の問題は経済学の(隠れた)重要テーマである。経済学で最も権威のある学術雑誌の1つであるAmerican Economic Reviewの第1号巻頭論文のタイトルが “Some Unsettled Problems of Irrigation”であったことがこれを象徴している[2]。その論文が発表されたちょうど100年後にElinor Ostromが同雑誌に論文を寄せ、灌漑管理の問題が未だに重要なテーマであることを強調した[3]。

では、この「未解決問題(unsettled problems)」とは何なのか。それは、全員で協力して取り組むべき事柄に対して、各人が他の人たちの行動に「ただ乗り」しようとすることで起きる「集合行為(collective action)」の問題である。そして、この問題が顕著に現れるのが、灌漑などの共有資源管理なのである。共有資源には、資源の利用を制限するのが難しい一方で、誰かが消費してしまった分の資源は他の人が消費することができないという特徴がある。このため、資源を消費する人々が経済合理的であると、各人が社会的に望ましい以上の量の資源を消費してしまうという「コモンズの悲劇」と呼ばれる問題が起きる可能性が指摘されてきた[4]。

こういった問題への伝統的な経済学からの処方箋は、資源に対して私的所有権を設定するか、政府による資源管理を実施することである。しかし、現実にはいずれもなかなか実施が難しい。その一方で、現実の共有資源管理を見てみると、この「悲劇」は必ずしも起きていないことが分かってきた。そして、コミュニティ内部の社会的結びつきこそが共有資源を円滑に管理する鍵であることを明らかにしてノーベル経済学賞を受賞したのが上述のOstromである。なお、この分野においては、「公的制度が未成熟な発展途上国においては市場・国家の失敗をコミュニティが補完する」というパースペクティブを提示した故・速水佑次郎教授の業績も決して忘れることができない重要なものである[5]。

このようなメカニズムが分かってきた一方で、灌漑管理の場合には、上流農民は用水を全て使用できる可能性があるのに対し、下流農民は上流からの残りしか使用することができないという特有の問題が存在する。これこそが筆者の修士論文のテーマであった[6]。

この論文では、農民間の社会的結びつきの強さ(社会関係資本)を経済実験によって計測し、自分よりも下流の人に対する利他性・信頼度が高い人ほど用水利用に対する主観的満足度が高いことを示した。これは、利他性・信頼度が自分勝手な行動を抑制し、相手のために自らの灌漑用水の需要量を下げることを示唆している。灌漑管理に特有の上流・下流という地理的異質性においても、社会関係資本が資源配分に重要な役割を果たしていることを、実験経済学という新しい研究アプローチによって示したことがこの研究の貢献である。

なお、この研究で用いた「主観的」評価こそが、今年度からの筆者の新しい研究のキーワードである。近年、実務・学術の両面から注目を集める主観的厚生評価の指標に関して、新興国のミクロデータを用いた包括的な研究を実施したいと考えている。

 

<参考文献>

[1] 茂木愛一郎(2010)「水利文明伝播のドラマ−スリランカから日本へ」、宇沢弘文・大熊孝(編)『社会的共通資本としての川』東京大学出版会.

[2] Coman, K. (1911) “Some Unsettled Problems of Irrigation.” American Economic Review, 1(1): 1–19.

[3] Ostrom, E. (2011) “Reflections on “Some Unsettled Problems of Irrigation,” American Economic Review 101: 49–63.

[4] Hardin, G. (1968) “The Tragedy of the Commons,” Science 162: 1243–48.

[5] Hayami, Y. and Y. Godo (2005) Development Economics: From the Poverty to the Wealth of Nations, New York: Oxford University Press.

[6] Aida, T. (2011) “Social Capital as an Instrument for Common Pool Resource Management: A Case Study of Irrigation Management in Sri Lanka,” JICA-RI Working Paper No.33.