国家崩壊からの国家再建の道筋~イエメン~

国家崩壊からの国家再建の道筋~イエメン~

佐藤寛(アジア経済研究所)

 

国家建設と国家崩壊(1200字) 1380字 2018/1/25

2017年12月3日、内戦の続くイエメン共和国の首都サナアでアリー・アブダッラー・サーレハ元大統領が、イスラム教ホーシー派民兵に殺害された。サーレハは1978年から2011年まで33年間イエメンの大統領の座に居座り続けた人である。この事実によってイエメン内戦はさらに混迷を続けるのか、あるいは和平への道筋が開けるのだろうか。

サーレハは、2011年の「アラブの春」と呼ばれるアラブ世界の一連の民主化希求運動の中で、国際社会や周辺アラブ諸国(特にサウジアラビア)の圧力を受けて自発的な退陣を選んだ。ただし他のアラブ諸国の元大統領(チュニジアのベン・アリは亡命、エジプトのムバラクは獄中へ、リビアのカダフィは撲殺)がたどった悲惨な末路を回避すべく「訴追免除」を得て、サーレハは辞任後も首都サナアに住み続け与党「総合人民会議(GPC)」の総裁職に留まった。この結果隠然たる影響力を暫定政権(暫定大統領に選出されたハーディーは、サーレハ時代の副大統領でGPCの副総裁)下でも保持し続けてきた。とりわけ、国軍組織は33年間の治世中に主要ポストを自らの影響下に置いていたし、特定の地方部隊(とりわけ南西部のモカ基地)の装備弾薬は自らの影響下に保持し続けてきたと伝えられる。

GCC諸国の肝いりと支援(金銭的な支援を含む)を得て進められた「移行期間」では、国民対話が行われ2014年の2月には「6地域連邦制国家」への合意までこぎつけた。しかしながら経済の停滞、非効率な行政と治安不安などで「民主的な国家への期待」は急速にしぼんでいき、こうした反ハーディー心理を利用して反政府勢力であったホーシー派が2014年9月には首都を占拠、2015年1月にはハーディーを追い出す結果となった(ハーディーはアデンに首都を移し、サウジに支援を要請)。その後の内戦状態でハーディー政権がホーシー派との戦闘に国軍を十分に動員できなかったのは、サーレハ前大統領が存在していたからである。では、サーレハの死によってこの問題は改善に向かうであろうか。

サーレハはイエメンの政治舞台においては、「存在することが迷惑」なアクターであったが、今回の事件はイエメンの今後にとっては最も問題の少ない退場方法であった。なぜなら、仮にサウジの空爆で死亡すれば国民の「反サウジ」心理を強化し将来的なイエメン・サウジ関係(さらにはその背景にいる英米との関係)に大きな遺恨となったであろう。また、仮にハーディー政府軍によって殺されたなら、サーレハ派シンパの最大政党GPCとハーディー政権の今後の和解交渉(この両派の和解が最も現実性の高い和平プロセスである)に大きな障害となったであろう。これに対して、2004年にサーレハの指示によって自らの指導者であったフセイン・アルホーシーを殺されたホーシー派によるサーレハ殺害は、多くのイエメン人にとっては当然の「復讐」と位置付けられる。

現在サウジは、ホーシー派の殲滅のためにサーレハ派残党への支援を強めていると伝えられるが、サナアの奪還は必ずしも容易ではないだろう。しかしながらホーシー派のサナア以南での掌握力が低下すれば、サーレハ残党派とハーディー政権の間のすみ分けはより容易になり、アデン、タイズなどの主要都市をアルカーイダなどの「非イエメン勢力」を駆逐することは容易となろう。

この段階を経て、より安定的な「統合政権」への道が開かれることを期待したい。

以上