最初のグローバル・カンパニーとしてのオランダ東インド会社

最初のグローバル・カンパニーとしてのオランダ東インド会社

島田 竜登 (東京大学大学院人文社会系研究科・文学部)

オランダ東インド会社というと何を思い浮かべるであろうか。この1602年設立の貿易会社については、人によって様々なイメージを持つであろうが、大きく3つに分けることができるだろう。

第一には、史上初の株式会社としてのオランダ東インド会社である。有限責任制を採用し、株式の売買も行われた。さらに、それまでは一回ごとの航海で清算することを前提とした制度をやめて、永続的に会社を存続させることを前提とした大規模な貿易会社が誕生したのであった。それゆえに、最初の株式会社としてのイメージは根強い。もっとも株式の所有割合に応じて会社の意思決定に参加するという「民主的」な制度は1799年の解散までついに導入されることはなく、有力な株主が寡頭的に支配する過渡的な形態の株式会社ではあったことは大塚久雄を持ち出すまでもない。

第二のイメージは、江戸時代、「鎖国」下の日本と交渉を持った唯一のヨーロッパ人としてのオランダ人である。長崎出島のオランダ商館は、オランダ東インド会社の解散までオランダ東インド会社の日本支店の所在地であったし、会社の解散後には主にオランダ東インド政庁によって貿易が担われた。もちろん、日本人にとって、長崎出島のオランダ人は貿易相手としての存在ばかりではない。医学や科学技術、国際情報、さらには西洋文明を日本に伝える役割をオランダ人が果たしたのである。

オランダ東インド会社に関する第三のイメージは、西洋によるアジア植民地化の先駆けというものである。オランダ東インド会社は1619年にアジアにおける最大の本拠地をバタヴィア(現ジャカルタ)に置いた。それ以後、オランダ東インド会社は貿易ばかりでなく、ジャワ島を中心にインドネシア諸島に領域的支配を拡大させていった。点の支配から面の支配へといった動きは会社の崩壊後の19世紀にも続いていったが、いずれにせよ、オランダ東インド会社が、現在のインドネシアにほぼ一致するオランダ領東インド植民地の形成の先駆けとなったことは否定できない。

このような、いわば西洋史、日本史、東洋史といった立場によるオランダ東インド会社についてのイメージが日本にはあるが、私はあえて別の見方を提示することにしたい。それは、世界史上初のグローバル・カンパニーとしてのオランダ東インド会社である。

オランダ東インド会社設立時の目的は、アジアから胡椒・香辛料をヨーロッパ市場向けに入手することであって、のちには、砂糖、綿織物、コーヒー、茶などがアジアからの主要商品となった。これに対してヨーロッパからアジアに持ち出されたのは銀であった。だが、オランダ東インド会社の興味深い点のひとつは、こうしたヨーロッパ・アジア間の遠距離貿易だけでなく、アジア域内でも貿易にも従事したことであった。ヨーロッパから持ち出す銀を節約するため、会社は海域アジア域内に多数の商館を設置し、ヨーロッパ市場向けの商品の入手にいそしむばかりか、アジア各地の商館間を結ぶ域内貿易にものりだし、その利益をヨーロッパ市場向けのアジア商品の購入資金の一部としたのである。商館は日本の長崎から東南アジアや南アジアの沿岸都市各地のほか、イランやアラビア半島、南アフリカにまでに及んだ。その貿易網は海域ユーラシア各地に広がっており、その意味でもオランダ東インド会社はグローバルな規模の会社であったし、このような大規模な貿易網を構築することはイギリス東インド会社といった他のヨーロッパ諸国の東インド会社にはとうてい不可能なことであった。

グローバルな活動を支えた会社の構成員の国籍は多数に及んだ。会社の従業員はオランダ人をはじめとしたヨーロッパ人だけではなかった。彼らだけでは人手が足りなかったのである。彼らとアジア人たちとの間の混血児もいたし、アジア人が会社に雇用されていることもあった。インド西部にあるグジャラート出身の水夫もいたし、華人の通訳もいた。さらには、インドネシア諸島をはじめとしたアジア各地から連れてこられたアジア人奴隷を会社は所有し、各種の肉体労働や兵士として利用していたのである。つまるところ、このグローバル企業は、宗教も、言葉も異にし、文化的背景の異なった人々から構成されていたのである。それを象徴するのは会社が支配する植民都市バタヴィアであり、この地はまさしく文化の混合する場であった。とまれ、この会社は文化的背景の異なる多数の人々から構成されており、内部統制の問題として、構成員間の文化的摩擦を回避して物事を進めて行くということは会社の存続にかかわる一大課題であった。この課題に対する会社の努力は並大抵ではなかったことは容易に想像できよう。

かくして、オランダ東インド会社を最初のグローバル・カンパニーとしてとらえるとき、現代を生きる我々に示唆することは何であろうか。まず、現在、グローバルに活動を行う企業の存在の意義を歴史的に問うということになるであろう。国境や文化を超えて、生産や流通、販売を行う企業の戦略策定にヒントを与えることもあるだろうし、グローバル企業の従業員管理方法を向上させるかもしれない。だが、より重要なことは、このオランダ東インド会社が生み出した多数の民族を管理するというシステムは、会社の崩壊後にも生き残ったということである。19世紀には本格的な植民地支配のひとつのモデルとなり、もはやビジネスだけの次元にとどまらなくなった。政治、経済、文化等にわたる植民地統治システムへと変貌し、さらには、独立後、今日の東南アジアや南アジアの社会を暗に律する歴史的構成要因となっているのである。グローバル・カンパニーとしてのオランダ東インド会社の歴史分析は、現代アジアを長期的に視野の下に理解するためには欠くことのできない作業なのである。