19世紀島嶼部東南アジアにおける中国市場志向型貿易の発展

19世紀島嶼部東南アジアにおける中国市場志向型貿易の発展

太田淳(広島大学大学院文学研究科)

近代東南アジアの貿易の発展は、欧米諸国が植民地経済を形成した1850−70年頃より以前から、特に1760-1850年頃に顕著に見られたことが、近年指摘されるようになった。後者の時代に発展の推進力となったのはジャンク貿易と華人移民の拡大であったとされることから、東南アジア史においてこの時代は「華人の世紀」と呼ばれる。

もっとも「華人の世紀」の貿易には、華人だけでなく多くの東南アジア人やヨーロッパ人も参加していたことから、筆者はこれを中国市場志向型貿易と呼んでいる。彼らは中国経済先進地域(揚子江下流域、北京など)で需要のある東南アジア産品−−鉱産物(錫や金)・農産物(胡椒、ガンビルなど)・海産物(ナマコ、フカヒレなど)・森林産物(籐、樟脳など)・燕の巣など−−を、各地で収集し取引した。それと引き換えに華人商人は、磁器・鉄製品など雑多な中国産品をもたらした。広州での茶貿易を有利に進めたいイギリス人私商人も、主にインド産のアヘンや染織品などをもたらした。華人経営の鉱山や農園の産品が直接本国に送られたのを除けば、その他の産品は東南アジアの商人によって各地の産地からサイゴン、リアウ(シンガポール南方)、マカッサル、マニラなど多くの中継港に運ばれ、華人やイギリス人の商人と取引された。

19世紀半ばから、このような中国市場志向型貿易は、次第に植民地経済体制へと連続した。1846−1869年にバタヴィアの統計局で作成された外島オランダ港の貿易統計は、それを確かめる上で興味深い資料である。外島オランダ港とは、後に外島と呼ばれるようになる地域(ジャワとマドゥラを除いたオランダ領東インドの領域)において、オランダ植民地当局が関税を課し、貿易を管理・記録した港を指す(西スマトラからマルク諸島にかけて位置するが、独立王国であったアチェ、バリ、ロンボックは含まれない)。

本統計の輸出品は、輸出先によって、欧米向けと中国・東南アジア向け産品とに大別できる。後者はさらに生産者によって、華人産品と現地産品に分けられる(いずれも便宜上の大まかな分類である)。欧米向け産品は原則として、植民地政府もしくはオランダ企業の管理下で大規模に生産され、西スマトラのコーヒー栽培がその典型である(それ以外の産品は、この時期の生産はまだ僅かであった)。華人商品は、西カリマンタンの金鉱山、バンカの錫鉱山、リアウの胡椒およびガンビル農園などのように、華人の資本と労働力を投下して生産された。現地産品とは、資本投下や大規模な組織化を伴うことなく、現地の人々によって採集された様々な産品を指す。大半は海産物もしくは森林産物で、大部分が中国へ、一部が東南アジアの他地域へ輸出された。このように、19世紀半ばのオランダ外島港では、ヨーロッパ向けのコーヒーを除けば、輸出産品は「華人の世紀」と同様の鉱産物、農産物、海産物、森林産物であった。コーヒーを始めとする欧米向け産品の輸出は、1846年は全体の3割弱であったが、1869年には55.5%に拡大した。残りは、中国および東南アジアに輸出された。その比率は縮小傾向にあるとは言え、輸出金額は1846−69年の間にほぼ3倍に増加しており、「華人の世紀」からの連続的発展が顕著である。また、外島オランダ港から輸出されたコーヒーの約65%を産した西スマトラでは政府主導で生産が進められたが、約33%を産した北・中部スラウェシでは、現地住民の意思によってコーヒー栽培が始められた。これらのことは、ジャワや西スマトラで政府主導の輸出作物生産が拡大した19世紀半ばにおいても、外島オランダ港周辺の多くの地域では、現地住民と華人によって中国、東南アジア、そして欧米向けに輸出品生産が活発であったことを示している。

これに対し輸入品は、中国産品、インド産品、ヨーロッパ産品がほとんどを占めた。中国産品はほとんどが雑多な生活用品であり前の時代とあまり変化がないが、インド産品はそれまで主流を占めた染織品に代わってアヘンがほとんどを占めるようになった。ヨーロッパ産品は綿布が過半を占め、輸入全体において1846年の57%ほどから1869年には74%余りに急増した。ヨーロッパ綿布の大幅輸入増は、機械化・大量生産に成功したイギリスの政府が、本国産業を保護したいオランダ政府と交渉を重ね、1830年代から輸入障壁の段階的撤廃に成功したことが主因に挙げられる。外島各地は18世紀半ばから中国向け産品の輸出によって購買力を高めていたと考えられるが、1830年代からは、大量生産によって低価格化したイギリス綿布が、それまでの主要な輸入品であったインド綿布に取って代わったと言えよう。英領シンガポールの設立と、同地を拠点とする華人やブギス人の活動が島嶼部東南アジア一帯で拡大したことも、イギリス製品の輸入増につながった。

このように、19世紀半ばの外島各地は、主に中国・東南アジア市場向けの伝統的産品の輸出を増やす一方で、輸入においてはヨーロッパ産工業製品を大量に受け入れるようになった。この時代においても中国市場は大きな影響力を持っていたが、欧米向けの輸出も政府主導だけでなく現地住民の自発的意志において増加していた。輸入では、イギリスの産業革命と植民地支配強化の影響が顕著であった。このようにして19世紀半ばに中国市場志向型貿易は植民地経済と結びつき、相互に強化しながら拡大していたと言える。

参考文献:太田淳「ナマコとイギリス綿布−19世紀半ばにおける外島オランダ港の貿易−」秋田茂編『アジアからみたグローバルヒストリー−「長期の18世紀」から「東アジアの経済的復興」へ』ミネルヴァ書房、2013.