臨海工業地帯と日本の“軌跡”

臨海工業地帯と日本の“軌跡” (小堀 聡)

 

 日本の高度経済成長の促進要因としてこれまで注目されてきたものの一つに、太平洋ベルト岸を中心に建設された臨海工業地帯がある。巨大なタンカー・鉱石専用船を円滑に使いこなせるよう港湾を整備し、それと工場とを直結させることによって、原燃料の輸送費削減(すなわち輸入価格低下)に成功したからである。資源・エネルギーの海外依存を避けるのではなく、むしろそれを最も“経済的”に行なうことに、高度成長期の日本は専心したのであった。エネルギー自給率の急速な低下はその結果に他ならない。

    臨海工業地帯と同様の試みは、西欧でもユーロポート建設などを通じて進められており、全くの日本独自というわけではない。だが、問題はその前後関係である。土木工学者で戦後の資源・エネルギー問題の代表的論客でもあった安藝皎一は、建設途中のユーロポートを1961年に訪問した際、以下のように記している。「埋立てのでき上がったところにシェルとカルテックスの石油タンクが続々建てられており、そこでこういう話を聞いた。なぜこうタンクばかり造っているかと聞いたところ、これは、タンクを造るために造っている事業なのだといい、日本が大きいタンカーをつくるから仕方がないのだ、ロッテルダムまでの水路をそんなに深く維持することは到底できないので、港を下流に移さざるを得ない、というのであった」(「ヨーロッパ港に考える」『エネルギー経済』第68号、1961年9月)。

    ユーロポートは“新興国”日本のタンカー大型化やそれを可能とした臨海工業地帯へのキャッチアップとして意識されていたのである。では、日本の臨海工業地帯造成はどのように進展したのであろうか。

    エネルギー革命が開始された1950年代に注目されるのは、地方自治体の役割である。地域の発展には重化学工業の誘致が不可欠との考えが広く共有されていた戦後、多くの地方自治体が埋立計画を立案し、その実行に必要な漁業補償交渉をまとめ、工場の進出を可能にした。太平洋岸各地に石油化学コンビナートや製鉄所が新設されることになった大きな原動力は、企業間競争だけではなく、地方自治体間の臨海開発競争にも求められる。この際、筆者が分析した横浜市の事例では、市の技術担当者と港湾審議会を所管する運輸省との間で、水際線を利用する工場を誘致するよう意思統一がなされており、輸送費削減のメリットが意識的に追求されていたことも窺える。

 とはいえ、臨海工業地帯が戦後突如として発見されたわけではない。戦間期からそれを強調してきた人物に、旧内務省技官の鈴木雅次(1889~1987)がいる。鈴木は工業の発達を左右するのは国内原料の有無ではなく、港湾利用の徹底による海外資源輸入費の削減にあることを1930年代の時点で既に主張し、臨海工業地帯の造成を通じた加工貿易の推進を唱えてきた。鈴木の主張は戦前・戦時期の土木政策には余り採用されなかったが、戦後は鈴木は日本大学国土総合開発研究所長として多数の臨海工業地帯造成計画を立案し、このなかで活かされることとなった。こうしたコンサルタント活動も自治体間競争の背景に見出すことができよう。鈴木は1968年に土木関係者初の文化勲章を受章している。

 だが、ここで話を終わらせるとするならば、それは事態の一面に過ぎないであろう。まず、臨海工業地帯は太平洋ベルト地帯だけには止まらず、1960年代に地域間格差是正を意図して指定された新産業都市でも、各地で臨海コンビナートが計画された。そして、その多くが挫折を余儀なくされる。そもそも、鈴木が臨海工業地帯を力説したのは、加工貿易に加えて、それが大都市圏以外でも費用対効果の優れた開発政策であり、工業の地方分散化に資すると考えたからであった。そして、鈴木のこの考えは、1969年の新全総でむつ小川原など大規模コンビナート開発が計画された際にも、全く揺らがなかった。したがって、鈴木の先駆的な臨海工業地帯構想は、高度成長のみならずその後の土建国家とその行き詰まりとにも通じる思想であったといえる。また、あえて事後的な評価を下すならば、太平洋ベルト地帯においても、その臨海開発が、広範な水質汚濁や住民と水辺との関わりの希薄化をもたらしたことは言うまでもない。のち鈴木の文化勲章受章に対しては、「エコノミックアニマルであるということをシンボライズするもの」(河合義和発言、『第71国会参議院公害対策及び環境保全特別委員会会議録』第10号、1973年7月6日)との非難までなされた。

 従来、産業政策史については通商産業省がまず注目され、その役割について多くの研究が蓄積されてきた。だが、今回紹介した臨海工業地帯の事例からは、地方自治体や運輸省、旧内務技官など通産省以外の主体も極めて大きな役割を果たしていたことが分かる。臨海工業地帯への注目を通じて、高度成長という日本の“奇跡”に加えて、その後今日までの日本の“軌跡”についてもより深く理解することができるではないか、そしてこのことは、現在の“新興国”により豊かな示唆を提供することにもつながるのではないか、と思案している。