ジンバブエはアフリカの発展モデルになりうるか

ジンバブエはアフリカの発展モデルになりうるか

 

峯陽一(同志社大学)

 

 アフリカが天然資源だけに依存しない経済発展を目指す時、潜在的に強力なモデルになりうる国はどこだろうか。私は個人的に、かなり有力なのは南部アフリカのジンバブエではないか、と思っている。

  日本とほぼ同じ面積の内陸国に、およそ1400万人が暮らしている。気候は温和で、土地は肥沃である。この地はセシル・ローズの名前をとって南ローデシアと呼ばれ、イギリス人の入植者が大規模農場を経営していた。大英帝国の入植型の植民地として、南アフリカやケニアと同様、道路や電力などの基礎的なインフラが整えられた。ジンバブエは、独立後もこれを引き継いでいる。

  そういうハコモノもあるが、それよりも私がいつも感心するのは、ジンバブエの「人」である。人的資本の質、あるいは国民性と言ってもいいのだが、ジンバブエ人は概して非常に勤勉である。農民も、知識人も、黙々と仕事をする人が多い。それでいて伝統を墨守するわけではなく、新しいことを工夫して試そうとする冒険心もある。

     ジンバブエ人は手先が器用で、仕事の細かいところにまで気配りする。隣国の南アフリカを訪れた観光客が好んで買い求める土産物のひとつに精巧な針金細工があるが、これはもともとジンバブエの工芸品であり、南アフリカの観光地の路上で針金細工の実演販売をしているのも、たいていはジンバブエからの移民である。仕事の細かさは知識人にも当てはまる。英語は正確で美しく、文献引用は包括的で、論の進め方は慎重。もちろん全員ではないが、そのような研究者がジンバブエ人には多いと思う。ジンバブエの勤勉革命がいつ起きたのかというのはよくわからないが、見事な石造都市グレート・ジンバブエの建設は、すでに11世紀に始まっている。

    ジンバブエは百年のイギリス植民地支配を経て、1980年に独立を達成した。パワーシェアリングの合意にもとづき、黒人多数派支配のもとでイギリス系少数派市民の権益は保全された。その結果、20世紀末の時点でも、ジンバブエの農業適地の半分以上は、いまだにイギリス系白人の農場主が所有している状況だった。そこに経済危機と干ばつ、困窮が加わり、私が南アフリカに滞在していた2000年には、独立運動の元ゲリラ兵士が超法規的な土地占拠運動を開始し、大農場を次々と接収していくことになる。独立から20年を経て、ジンバブエに荒々しい政治の時代が訪れた。

     それから数年間で、ジンバブエ経済は壊滅状態に陥った。第一次世界大戦後のドイツをはるかに上回るハイパーインフレがジンバブエを襲い、2008年には、冗談のような「100兆ジンバブエドル紙幣」(ゼロが14個並ぶ)が印刷されている。イギリス政府は、土地占拠を追認して支持基盤を固めようとしたロバート・ムガベ大統領を激しい言葉で非難し、一時期は英軍の派兵まで検討していたという。ジンバブエ人は真っ二つに分裂し、内外の研究者の立場も鮮明に分かれていく。アフリカ研究の重鎮マフムド・マムダニが2008年の12月の『ロンドン・レビュー・オブ・ブックス』に寄せた論文「ジンバブエの教訓」(http://www.lrb.co.uk/v30/n23/mahmood-mamdani/lessons-of-zimbabwe)は、イギリス帝国の植民地支配の責任を強調するものだったがゆえに、同僚たちの批判の集中砲火を浴びることになった。

     国富の源泉は、豊かな物的資本と、豊かな人的資本、うまく設計された制度、政治の安定、そして貿易や投資も含む良好な国際関係であろう。最後のふたつについて、21世紀初等のジンバブエは完全にバランスを失った。政治的混乱の結果、教育を受けた人材は南アフリカやイギリスに流出し、今ようやく帰還が始まったところだ。ジンバブエで土地占拠運動が起きた2000年あたりを転機として、アフリカ経済は順調な資源輸出によって上昇局面に入ったが(言うまでもなく、中国の存在感が増している)、ジンバブエの実質経済成長率は1999年から2008年の平均で年率マイナス7.8パーセントを記録し(実体経済が10年間で半分以下に縮小したことになる)、同国は大陸規模の成長の好循環から完全に取り残されてしまった。最悪のタイミングで植民地支配の古傷をえぐり、経済発展の機会をとらえそこねるという愚直さ、要領の悪さも、この国を見捨ててはおけない気にさせる。後退の分だけ、今後の伸びしろは大きいはずだが。

     安定していたはずの国が急激な政治変動を経験すると、定点観測をしている研究者の意見を聞きたくなる。日本のジンバブエ研究者というと、第一に挙げるべきは、吉國恒雄さんである。生年は1947年。京大医学部を中退してサンフランシスコに渡り、それからジンバブエ大学の大学院で社会経済史の研究に打ち込み、ジンバブエ大学の博士号を取得された。同大学の講師として経済史を教え、15年にわたるジンバブエ生活を経て、久しぶりに日本に戻って専修大学に勤務された。その間、『グレートジンバブウェ』(講談社現代新書、1999年)という名著も出されたが、闘病生活の末、2006年に逝去された。遺稿集の『燃えるジンバブウェ』(晃洋書房、2008年)では、上記のマムダニに近い立場で、より長期の「ジンバブエ資本主義発達史」の一段階として近年の土地再分配を位置づけておられたが、当時の状況はまだ流動的だった。同時代のジンバブエ政治についてまとまった分析を残せずに世を去らねばならなかったことを、ご本人がいちばん悔しがっておられたように思う。

     小生は一緒にアフリカ史関係の訳書を出したこともあって、以前から吉國さんの生真面目な人柄に引かれていたが、何よりも印象的なのは、氏が「ドクター・ヨシクニ」として、ジンバブエ人の研究者たちに(さらにジンバブエを研究する欧米の研究者たちにも)、親しみをもって評価されていたことである。吉國さんの主著(Tsuneo Yoshikuni, African Urban Experiences in Colonial Zimbabwe: A Social History of Harare before 1925, Harare: Weaver Press, 2007)は、農村からも周辺地域からも人々を引きつけたジンバブエ首都ハラレの豊かな過去を明らかにした歴史作品として、地元の研究者たちに読まれ続けている。日本には数百人のアフリカ研究者がいるが、吉國さんのように地元の研究者コミュニティに受け入れられ、その発言が「外国人のコメント」ではなく内部事情に通じた識者の発言として受け止められる例は、きわめて稀だと思う。

     吉國さんの遺志を継ぐ、というわけでもないのだが、近々、ジンバブエ人の研究者たちと一緒に「アフリカの紛争解決」に関する本を出すことになった。そこに原稿を寄せてくれたウィルバート・サドンバさんは、自ら土地占拠運動に参加した「元ゲリラ」であり、見事な石像を彫る彫刻家であり、独立系アフリカ教会の司祭であり、ジンバブエ大学で教鞭を執る社会学者でもある。最近は、ジンバブエの解放闘争の推移を内側から描いた研究書(Wilbert Sadomba, War Veterans in Zimbabwe’s Revolution: Challenging Neo-Colonialism and Settler and International Capital, Martlesham, Suffolk: James Currey, 2011)を出しておられる。「実践者であって、同時に研究者でもあるというのは、どういうことですか」と本人に尋ねたら、「参与観察ですよ」という答が返ってきた。ただし、「どっちの立場も本気だけどね」とのことである。

    サドンバさんは、80年代に吉國さんの研究助手を務めていて、そこで一人前の研究者に育ててもらったという深い恩義があるのだという。彼と話していると、吉國さんへの深い敬愛が伝わってくる。2014年5月には日本アフリカ学会の学術大会にあわせて来日し、会場で生前の吉國さんを知るというアフリカ研究者を探しては、ICレコーダーを片手に精力的にインタビューをしておられた。私もつかまっていろいろ話をさせられたが、いつもアフリカでナラティブを集める日本人の研究者たちがアフリカ人研究者のインフォーマントになり、やや緊張しながらインタビューに答える姿を目撃するのは、なかなか興味深かった。サドンバさんは、東洋の島国からアフリカにやってきた吉國さんの「ライフヒストリー」を、自分なりの「恩返し」として、学術論文にまとめる計画をあたためているという。

    アフリカを研究対象とする私たちが生身の人間としてアフリカ人の研究対象になるというのは、当然あってもいいのだが、現実には、滅多にないことだ。こういう律儀で精力的なサドンバさんのような人物がでてくるあたりが、いかにもジンバブエらしい。次の世紀のアフリカの星として、私がこの国に期待をかける理由のひとつである。