松永 信雄(まつなが のぶお)

〔元外務事務次官、元駐米大使〕

インタヴュー期間2000年7月21日〜2004年5月14日(全35回)
インタヴュアー伊藤隆、御厨貴、河野康子、佐道明広
場所政策研究プロジェクトセンター
キーワード日韓基本条約、日仏関係、日中航空協定、ダッカ事件、日米貿易摩擦
【インタヴュー内容】
1923年1月外交官松永直吉の次男として誕生した。生後まもなく父の在外勤務のためオタワに移住、その後もオランダやオーストリアなど幼少期は海外で生活することが多かった。中学以後は日本で過ごし、第一高等学校、東京帝大法学部を経て、1943年に召集を受けて横須賀海兵団に入隊、大和田通信隊に所属した。
1946年3月には外務書記生となり外交官への道を歩む。終連中央事務局経済部などを経て1950年にはパリ在外事務所に赴任した。1953年から本省条約局勤務となったが、日ソ国交回復によってソ連大使館が設立されるのと同時にソ連に赴任する。ジュネーブ代表部に異動後、1961年には再び本省に戻り、アジア局中国課等を経て条約課長時代には日韓条約交渉にあたった。1967年には参事官としてフランス大使館に勤務、3年半の勤務後再び本省官房に戻って人事課長となったが、このときに省内決裁制度、外交官試験制度の見直し等の外務省制度改革を試みた。条約局長時代は大平外相に随行して日中航空協定締結に尽力、官房長時代にはダッカ事件が起こり外務省の責任者の一人として事態の収拾を行う。1978年からはメキシコ大使を3年半務め、外務審議官として帰国、1982年ベルサイユ・サミットではシェルパを務めた。中曽根政権発足直後には外務事務次官となり、さらに同政権下の1985年には、大河原良雄氏の後を受けて駐米大使となった。折しも米国との間では経済摩擦問題等が深刻化しており、日本批判を緩和すべく米国内を奔走した。またその間、米国内の親日派開拓にも尽力した。退官後は国際問題研究所理事長となったが、1992年から98年までは日本政府代表として、国際会議等では閣僚級の立場で出席した。
本インタヴューは、松永氏の誕生から政府代表を務めた1990年代までを網羅的に質問したものである。事前に質問事項を作成し、松永氏も目を通した上でインタヴューを進めた。成果物本編(上・下、2巻)は第1回から27回までであり、生誕から駐米大使時代までである。退官後国際問題研究所理事長、日本政府代表としての活動は第28回から35回までに収められ、続編とした。なお成果物刊行にあたっては松永氏自身の校訂作業を経ており、外交官としての経験のうち伝えておくべき事柄についてよく検討し、簡潔に整理された語りとなっている。
【主要参考文献】
松永信雄『ある外交官の回想−日本外交の50年を語る』(日経評論社 2002年)