宮崎 勇(みやざき いさむ)

〔元経済企画庁長官、大和総研特別顧問〕

インタヴュー期間2001年4月26日〜2002年4月26日(全12回)
インタヴュアー中村隆英、伊藤隆、森直子、藤井信幸、村井哲也
場所大和総研赤坂事務所
キーワード官庁エコノミスト、構造改革、所得倍増計画、経済白書、国民生活白書、前川レポート、平川レポート、村山富市内閣
【インタヴュー内容】
宮崎勇氏は1923年に生まれた。中学・高校時代を佐賀の祖父母の元で過ごした宮崎氏は、早くから「経世済民」としての経済に関心を持った。1947年には東京大学経済学部に入学。卒業後、最初で最後の新卒キャリアの一人として経済安定本部に入る。経済安定本部では動力局配炭課の後、官房復興計画室に配属となり、ここに宮崎氏の経済計画との深い関わりが始まる。50年に経済安定本部が経済審議庁へ改組された後、同庁計画部第一計画課係長、総合計画局計画課筆頭補佐を歴任する。その後、52年に経済審議庁が経済企画庁に改組され、同庁計画局計画一課、総合計画課に配属された。日本の戦後復興から成長期にさしかかるこの時期に、宮崎氏が若手官僚として主要経済計画の策定に関与したことは重要である。57年から米国マサチューセッツ工科大学国際問題研究所へ2年間留学し、また61年から2年間は国連の工業開発部に出向、宮崎氏は国際派そしてケインジアンとしての基盤を強化している。
その後、総合計画局計画課課長補佐、国民生活局官房調査官、調査局内国調査課長、調整局参事官、調査局長、総合計画局長を歴任し、79年経済企画庁事務次官に就任する。この時期、日本経済は高度成長期を迎え、池田政権は経済計画「国民所得倍増計画」を閣議決定するが、宮崎氏は、「倍増計画」の総論を執筆した実質的責任者となった。その後も「中期経済計画」「経済社会発展計画」と経済計画は続くが、宮崎氏は計画系統からは離れ、「国民生活白書」「経済白書」の執筆責任者を経験した。この時代の宮崎氏は、経済成長と開発への過度の傾倒に警鐘を鳴らし、国民生活への視線を重視するようになった。また、富士・八幡製鉄合弁に反対し、企画庁内でも異論がある中、経済白書に論を張るなどしている。70年代には、石油危機後のインフレや雇用不安・経常収支赤字といったように、国際経済と連動して日本経済が激動の動きを見せる中、総合経済局長に就任するが、本人も述べているように中期的経済計画の役割そのものが弱まっており、重要な証言はない。この時期は、OECD経済政策委員会に出席し、サミットに4回同行するなど国際派経済官僚の中心として政策形成とその周辺で仕事を続けた。
その後、80年に経済企画庁を退官し、82年に大和証券経済研究所代表取締役理事長、89年に大和総研代表取締役理事長に就任した。官僚を辞めてからも宮崎氏は、「前川レポート」起草委員に就任、また「平川レポート」作成に参加と民間エコノミストとして経済政策へのサポートを続けた。95年には村山改造内閣に経済企画庁長官として入閣するが、約半年後に内閣交代により経済企画庁長官を辞任した。その後も、OBサミット事務局長など幅広い活躍が続いている。
経済企画庁は2001年の省庁再編成で内閣府に統合され、事実上消滅した。宮崎氏は、経済安定本部から経済企画庁のほぼ全時期を官僚として経験し、さらには経済企画庁長官まで務めた稀有な存在である。本インタヴューで、宮崎氏は戦後の官庁エコノミストの草分けとしての自己の経験を語るとともに、エコノミストとしての現代日本の政治経済に対する考え方なども語っている。本書は、脚注が多く、経済・政治に対して基礎知識を持っていない者にとってもわかりやすいよう仕上がっている。なお、本インタヴューに関連する図表のみを収録した別冊資料がある。
【主要参考文献】
サンケイ新聞「私の交遊記」(1984年1月4日から23日 12回連載)
宮崎勇『軍縮の経済学』(岩波書店 1964年)
宮崎勇『経済計画』(筑摩書房 1971年)
宮崎勇『経済計画の話』(日本経済新聞社 1971年)
宮崎勇『人間の顔をした経済政策』(中央公論社 1977年)
小峰隆夫・原田泰・宮崎勇編『日本経済再生の視点』(岩波書店 2001年)