本野 盛幸(もとの もりゆき)

〔元外務審議官、元駐仏大使〕

インタヴュー期間1999年4月2日〜2001年1月9日(全15回)
インタヴュアー伊藤隆、佐道明広、武田知己、股野景親、御厨貴
場所政策研究プロジェクトセンター
キーワード軍令部、次官秘書官、総理大臣秘書官、佐藤栄作、官房総務参事官、シェルパ、フランス
【インタヴュー内容】
外務大臣本野一郎が祖父である本野盛幸氏は、本野家の外交官四代目に当たる。幼少時代は海外で暮らしフランス語を日用語とし、10歳になってようやく日本に戻ってきた。その後、学習院高等科から東北大学に配属されたが海軍に入り、軍令部の特務班員となる。終戦後は東京大学法学部に入り、外交官となった。
最初に配属された儀典課では、外交官の車に付けるナンバープレートの外務省専管を実現させている。これは今でも続いている。また1952年、儀典課と併任で次官付きを命ぜられ、井口貞夫の秘書官補佐を務めた。同年、在米大使館に赴任、皇太子訪米を成功に導いた。1954年に帰国後は、情報文化局第一課に勤務した。1957年には大野勝巳次官、山田久就次官の秘書官となり、外交の枢機に触れることを得た。1958年、在英大使館勤務。未だ対日世論の悪い中で大野大使を中心とした積極的PR活動を行い、日英通商航海条約交渉推進に尽力した。
経済局中近東課、経済局総務参事官室首席事務官、欧州課長を経て総理大臣秘書官となり、佐藤栄作を補佐した。数々の外交案件に当たったが、中でも東南アジア諸国歴訪の達成と、沖縄返還交渉を「両三年内」に開始させることを公式に明言させたことは、本野氏の大手柄であった。1968年、在フランス大使館勤務。本野氏はカンボジア勤務を希望していたが、外交の本流を歩めという佐藤総理の親心からフランスに変更された。ただし日本は、まだこの時外交上重視されるような国ではなかったので、政務よりも情報収集が中心であった。在任中には昭和天皇の訪仏があった。1972年に経済協力局外務参事官となり、無償援助とJICA(国際協力機構)、OTCA(海外技術協力事業団)を担当。1973年には官房総務参事官として官房の総括的役割を務めるとともに、国会も担当した。外務省の定員増やクアラルンプール事件など忙しく立ち回った、思い出のひときわ深い役職である。主な業績としては、外務省の近代化を見据えて「機能強化対策チーム」を官房総務課内に設置したことがある。またオイルショックの際、アメリカ局の主張の強い中で敢然として山本学中近東課長をバックアップし、アメリカからアラブ寄りと見做された「官房長官談話」を出すことに成功している。これは、本野氏が外務省時代で一番の成功と自負するところである。1976年、経済局長としてロンドンサミット、プエルトリコサミットの事務方を取りまとめる。1978年にはモロッコ大使に就任、続いて1980年にニューヨーク総領事となる。そして、1983年に外務審議官に就任した。シェルパとしてサミットに参加し、中曽根総理を支えた。1984年フランス大使となり、日仏友好ムードの増進に尽力した。1987年に退官後は野村證券常任顧問を務める。
本書はライフヒストリーであると同時に、テーマ別にも構成されていることに特徴がある。特に、総理大臣秘書官と官房総務参事官の時期について本野氏は詳しく言及している。
【主要参考文献】
本野盛幸『大きく変貌する国際情勢 ワイス経済セミナー』(世界経済情報サービス 1990年)
本野盛幸『どうなる’92年のEC市場統合』(社会経済国民会議・調査資料センター 1990年)
佐藤栄作、伊藤隆『佐藤栄作日記』(朝日新聞社 1997年)