大賀 良平(おおが りょうへい)

〔元海上幕僚長〕

 
インタヴュー期間 2002年9月26日〜2003年12月8日(全14回)
インタヴュアー 伊藤隆、影山好一郎、高橋久志、佐道明広、中島信吾、相澤淳
場所 (財)水交社内クラブ水交会議室、政策研究プロジェクトセンター
キーワード アッツ沖海戦、朝鮮掃海、業務掃海、対潜水艦戦、海上幕僚監部防衛部、RIMPAC、金丸信
【インタヴュー内容】
大賀良平氏は、1923年4月長崎県にて生まれる。1939年12月瓊浦中学校より海軍兵学校に入学、1942年11月に海軍兵学校を卒業(海兵71期)。1943年1月から少尉候補生として軽巡洋艦「阿武隈」に乗り組み、アッツ島沖海戦やキスカ撤退作戦などのアリューシャン方面の作戦に参加、同年6月海軍少尉に任官される。その後、潜水艦職域に転向し、海軍潜水学校を卒業、伊202号潜水艦の航海長などを歴任し、舞鶴で海軍大尉として終戦を迎える。1945年12月充員召集され、復員事務官として復員業務に携わった後、海上保安部に勤務し瀬戸内海等の業務掃海を行う。1950年6月の朝鮮戦争の勃発に伴い、第五掃海隊指揮官として朝鮮海域の鎮南浦、海州にて掃海活動に従事した。1951年1月海上保安官に転官し三等海上保安正に任官後、1952年8月海上警備隊創設に伴い一等海上警備士に任官される。海上自衛隊の創設後、1954年7月一等海尉、同年8月には三等海佐に任官される。海上自衛隊入隊後は約10年にわたり業務掃海を担当した。1956年8月第一掃海隊群幕僚に補職され、翌年7月海上自衛隊幹部学校指揮幕僚課程に入校、以後、海上幕僚監部防衛部で勤務した。1959年8月二等海佐に任官、1960年12月海上自衛隊幹部学校高級課程に入校、翌年12月第二掃海隊群幕僚に補職される。1965年2月から3月まで、港湾防備調査のため、イタリア、フランス、イギリスおよびドイツに出張、帰国後の7月一等海佐に昇進する。1966年7月から1967年6月までアメリカ海軍大学指揮課程に留学し、同年8月海上幕僚監部防衛部防衛課防衛班長として、次期対潜哨戒機開発問題およびDDH開発問題といった兵力整備計画および防衛計画の策定に関与する。以後再び海上勤務に出て、1969年2月第五駆潜隊司令として大湊に赴任、12月には第九護衛隊司令に補職された。1970年7月海上幕僚監部総務部人事課長に補職され、1972年1月海将補に昇進する。同年6月第一潜水隊群司令に補職され、実戦的な訓練を行い潜水隊群の錬度向上に努めた後、再び中央勤務に戻り、1973年12月海上幕僚監部防衛部長に補職され、年次防などの策定に携わった。1974年12月軍事事情視察のためアメリカへ出張、翌年7月海将となる。1976年3月には護衛艦隊司令官、同年12月には大湊地方総監を歴任し、1977年9月海上幕僚長に就任する。1980年2月に退官、同年5月日本無線顧問に就任すると同時に、日本戦略研究センターのメンバーとして防衛問題の解説等を行う。1998年5月から2000年5月まで水交会会長を務めた。
本オーラルにおいて大賀氏は、軍事上の専門的な問題について、一般読者にも理解できるよう平明に語っている。大賀氏の回想内容は多岐に及ぶが、主なポイントとしては、保科善四郎を始めとする敗戦後の海軍軍人の動向や、海上保安庁時代から海上自衛隊初期の業務掃海の内容、海上幕僚監部防衛部における国防計画の策定過程、人事行政、米海軍と海上自衛隊との関係、坂田道太を始めとする防衛庁長官と制服組との関係、海原治らの内局の防衛局長との関係などであり、再軍備以来の海上自衛隊の動向を研究分析するのに重要な史料となっている。
【主要参考文献】
大賀良平ほか『日米共同作戦:日米対ソ連の戦いシンポジウム』(麹町書房 1982年)
大賀良平『シーレーンの秘密 −米ソ戦略のはざまで』(潮文社 1983年)
大賀良平「米ソ「海洋核戦略」の最前線−「レッド・オクトーバーを追え」の迫真(座談会)」(『諸君! 18(4)』1986年)
大賀良平「潜水艦衝突なぜ起こった−元海幕長はこう分析する」(『THIS IS 5(10)』1988年)
大賀良平「私はこう読む−アメリカが安保廃棄も(土井政権で日本はどうなる)」(『THIS IS 6(12)』1989年)
大賀良平「海上自衛隊の歩み−対潜作戦を展開する"持たざる艦隊"の鬱屈(証言・戦後昭和史)」(『THIS IS 7(3)』1990年)
大賀良平「旭日旗、再び−海自が誕生した頃」(『世界週報』83(32) 2002年)