大河原 良雄(おおかわら よしお)

〔元駐米大使〕

インタヴュー期間 2002年4月16日〜2003年7月11日(全15回)
インタヴュアー 竹中治堅、佐道明広、鈴木邦子、股野景親
場所 財団法人世界平和研究所
キーワード 日米関係、安全保障、経済摩擦、外務省、駐米日本大使館
【インタヴュー内容】
大河原良雄氏は、1941年、東京大学在学中に真珠湾攻撃の報に接した。1942年、外務省入省直後、海軍経理学校に入学し、翌1943年2月には、海軍主計として、ラバウルに赴任する。ラバウルでは、第八根拠地隊司令部付となり、太平洋戦争を経験した。終戦後しばらくはラバウルにて連絡将校として勤務し、1947年4月に帰国。米国占領下の日本では、連絡調整中央事務局に勤務した。1949年、通産省に出向し、そこでガリオア留学試験を受け、1951年7月から米国に留学。1952年に帰国後、外務省経済局勤務を経て、1954年8月、在連合王国日本大使館に、1956年11月には、在フィリピン日本大使館に赴任した。1958年に帰国後、外務省国際協力局及び国連局を経て、1960年12月より、第二次池田内閣において、小坂善太郎外務大臣の秘書官を務めた。
1962年8月から一年間、ハーバード大学国際問題研究所の研究員をし、以後、外務省人事課長及び官房長、そして駐豪日本大使を歴任した以外は、一貫して、日本の対米外交に携わる要職に就いた。1963年7月には在米国大使館経済担当参事官となり、官民合同会議や利子平衡税、貿易関係を手がける。1967年より、外務省アメリカ局参事官として、沖縄返還交渉に携わり、1971年2月からの在米国特命全権公使時代には、ニクソン・ショックを体験される。1972年9月からは、本省アメリカ局長として、空母ミッドウェーの母港化問題等に取り組んだ。そして1980年から1985年の駐米大使時代は、日本側では、大平―鈴木―中曽根という内閣交替や、米国側でもカーター民主党政権からレーガン共和党政権への交替の中で、日米関係に継続して関与した。特に、1980年代の日米安全保障関係や日米経済摩擦への対応では、米国のカウンターパートとの交流や議会への働きかけを積極的に行い、より良い日米関係の構築に尽力した。
大河原良雄氏のオーラルヒストリーの特徴は、日米関係の歴史を、第二次世界大戦中から、戦後の占領期、さらに、その後の日米外交史(沖縄返還交渉、安全保障関係の強化、経済摩擦の展開等)を、一人の外交官を通して、具体的に垣間見ることが出来る点である。現在も、大河原氏は、(財)世界平和研究所の理事長をされながら、日米協会の会長を務めている。
【主要参考文献】
大河原良雄『ワシントンから見た日米関係』(日本国際問題研究所国際問題講演録 .43 1985年)
大河原良雄『アメリカ在勤を終えて』(日本経済調査協議会 日経調資料4 1985年)
大河原良雄『孤立化を避けるために:大使の直言』(世界の動き社 1985年)
大河原良雄『黒字国日本の国際責任』(尾崎行雄記念財団 1986年)
大河原良雄・磯村尚徳著、社会経済国民会議産業開発課編『国際摩擦:いまやらなくていつできるのか』(社会経済国民会議調査資料センターセクジェ文庫 1987年)
大河原良雄『日米大転換のとき』(講談社ビジネス 1987年)
大河原良雄ほか『米国と日本:世界の平和と繁栄のためのリーダーシップ:日米協力に関する6人委員会共同報告』(日本国際交流センター 1989年)
大河原良雄『日本の品格:世界から求められるもの』(光文社カッパホームズ 1990年)
Ookawara, Yoshio “To Avoid Isolation: an Ambassador's view of U.S./Japanese Relations” (University of South Carolina Press, Columbia, S.C. 1990)
大河原良雄・奥宮正武・豊田穣(鼎談)「われら「南十字星」の下でかく戦えり―ミッドウェー以後最大の戦場となった南太平洋での戦いが教えるものは」(『プレジデント』28(3)   1990年3月号)
大河原良雄「「日本たたき」の裏側にあるもの(視点)」(『日経ビジネス』645 1992年6月号)
大河原良雄(インタヴュー)「日本外交の「孤立」と「自立」−戦後48年、外務省は何を考えてきたか」(『諸君!』25(8) 1993年8月号) 大河原良雄「談話室(76)日米関係150年の教訓」(『外交フォーラム』17(9)(通巻194) 2004年9月号)