竹下 登(たけした のぼる)

〔元内閣総理大臣〕

インタヴュー期間1997年10月19日〜1999年3月13日
インタヴュアー伊藤隆、御厨貴、内藤武宣
場所旧佐藤栄作邸
キーワード竹下派、政治資金、ふるさと創生論、消費税、リクルート事件
【インタヴュー内容】
竹下登氏は、1924年2月26日、酒造業を営む父・勇造、母・唯子の長男として島根県で生まれた。旧制松江中学校卒業後、早稲田大学第一高等学院に入学。1944年学徒動員で陸軍飛行隊に入隊、陸軍少尉で終戦を迎える。復員後、早稲田大学商学部に再入学し、1947年に同学部を卒業後、掛合中学教員を務め、自民党島根県連青年団長を経て1951年島根県議会議員に初当選。1958年、旧島根全県区から衆議院議員に当選し、連続当選14期。この間、自民党青年局長、通産政務次官、内閣官房副長官、第3次佐藤内閣の内閣官房長官、第2次田中内閣の内閣官房長官、三木内閣の建設大臣、衆議院予算委員長、第2次大平内閣の大蔵大臣、第1次中曽根内閣発足から第2次中曽根第2回改造内閣に至るまで大蔵大臣を4期連続で務めるなど要職を歴任した。大蔵大臣在任時の業績として、1985年先進5ヵ国蔵相会議で「プラザ合意」に加わったことが挙げられる。政界復帰が危ぶまれていた田中角栄元総理と袂を分かち、1985年に創世会を旗揚げ、1987年7月二階堂進、小沢辰雄らと決別し、113人を率いて竹下派を結成。1986年自民党幹事長となり、1987年第12代自民党総裁、第74代内閣総理大臣に就任した。総理在任中の主な業績には、税制改革に取り組み、1989年に「消費税」の導入を実現したほか、全国の市町村に一律1億円を交付する「ふるさと創生」事業を実施した。1989年には、昭和天皇の崩御に伴い、「昭和」から「平成」への移行に尽力。また、ライフワークとして「ふるさと創生」を提唱し続けた。しかし、「リクルート事件」をきっかけに政治不信が広がり、1989年6月に退陣した。
1991年自民党最高顧問に就任後も、陰の実力者として政界に重きをなした。退陣後は、自らを「平成の語り部」と称して最大派閥竹下派のオーナー、小渕派の創設者として以後の内閣に影響力を行使した。2000年5月、病気のため政界引退を表明、弟の竹下亘が後継者となる。2000年6月19日死去、享年76歳。正二位大勲位菊花大綬章、レジオン・ド・ヌール・グラン・ド・オフィシエ勲章を授与される。
本オーラルヒストリーでは、「派閥」や「土建屋選挙」といった戦後政治の構造について、竹下氏自身の体験や見聞に基づくエピソードを交えながら回想している。例えば、自民党が競争原理を主張し、社会党が働く者の権利を主張した結果、日本は均整の取れた国になったとして野党の存在意義を説いたり、派閥が切磋琢磨することで、自民党内部の主流派と反主流派との間で競争原理が働いたとして、派閥の効用を説明している。また、後援会を通じた政治資金の集め方や政治資金の配り方など、現代日本政治を考える上で興味深い回想も見ることができる。
なお、本オーラルヒストリーは、『政治とは何か−竹下登回顧録−』として、2001年に講談社から刊行された。
【主要参考文献】
竹下登『理想をめざして:竹下登のさわやか対談・我が道を行く』(新樹企画 1981年)
竹下登『まごころの政治:竹下登のさわやか対談』(新樹企画 1983年)
竹下登ほか『あの山こえて:まごころとふるさとのある国づくり』(新樹企画 1986年)
竹下登『素晴らしい国・日本:私の「ふるさと創生論」』(講談社 1987年)
竹下登〔述〕『竹下総理大臣演説集』(日本広報協会 1990年)
竹下登『証言保守政権』(読売新聞社 1991年)
竹下登『平成経済ゼミナール:数字で見る戦後の日本』(日経BP出版センター 1995年)